この記事は自分の過去ログ2005年1月5日を見ていていくつか思いを付け加えました。内容的には重複部分がありますが、ご容赦ください。
2005年1月5日付の日経新聞夕刊を見ておりましたら、「子どもの教育費」の連載が載っていました。僕が子どもの頃は塾などへ行っている知り合いはいませんでしたが、今の時代は「塾」という存在がかなり重要になってきているようです。特殊技能を身につけるのでない限り、公教育と家庭教育で十分な教育を施すことが出来なければならないはずなのですが、世の中は理想通りには動きません。
先日の参議院議員選挙でも「格差」が争点のひとつになっていました。子どもの間に学力格差が広がり、子どもが落ち着いて学習できない公立学校が少なくない状況では、「お受験」に躍起になる保護者を責めることはできないように思います。高い学費のかかる私立に子どもを進学させる家庭の経済力が、子どもの学力を支えているという指摘も一部にあります。事実であるならば我が国は「階層社会」に近づいているということになります。高い学費を払えない家庭の子どもは、良い学校に行けない、すなわち高所得の職業に就けない、故に格差は固定化するという論理です。
しかし、良い学校に入ることでただちにその子の将来が保証されるものではないということも厳然たる事実です。そしておそらくは、両親や子どもの最終目標が、有名校への進学で終わるものであるとは思えません。しかし、目前に迫った関門は遠い目標を見失わせる魔力を持っているようです、「有名塾に入るための塾」があるという事実はその一例でありましょう。
ごく一部の塾講師は、受験問題回答テクニックのインストラクターに過ぎないことを知っています。むろん、一部の学校教師にも指導力不足が見受けられる事実も直視しています。受験テクニックを身につけることで大学受験、就職試験くらいまでは持ちこたえることができるケースが多いようですが、その後の人生ではどうなのでしょう。受験競争に勝つことと、教養=すなわちカルチャーを身につけることは全く別の領域です。そして当然、学校をおえた後にものをいうのは教養であるはずです。世の中の問題はおおよそ受験テクニックでは解き明かせないことばかりだからです。
僕自身は子どもにとっての最良の教育者は両親を初めとする保護者であると考えています。そして子どもたちが生活している社会の大人たちの姿であると考えています。最近は保護者や地域社会が子どもたちの教育を放棄しているように見受けられてなりません。もともと子どもの行儀の悪さに寛容すぎた日本人は、今は子どもの行儀の悪さの主犯を学校に転嫁しようとしています。もともと学校は行儀の悪い子どもたちの矯正教育の場ではありません。しかし今や学校意外に生活習慣や技能を身につけさせてくれるところがないという子どもが多いのも事実なのです。
家庭や地域社会を啓蒙することはたやすいことではありません。したがって当面の教育上の問題には教師が関わらざるを得ないことになります。しかし、現状の人員配置と予算では当然限界があります。教師としての職務を全うしようとすればほとんどの教師が慢性的な過重労働を強いられることになります。
資源のない我が国で、何が国を支える力となるかと言えば、人以外にありません。子どもたちを育てることに対して予算と人員を十分に手当てすることなしに、ただ「聖職者としての奉仕」を教師に求め続ける限りは、教育をめぐる問題は改善を見ないことでありましょう。優れた人材が教育というこの国の最重要分野から離れていってしまうのを食い止めなければならないでしょう。
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