教育の質の低下はおそらく30年、40年という長きにわたって緩やかに継続しているものかも知れません。スプートニクショックの頃は、世界的に科学教育に力を入れようと言う風潮がありました。ここ数年来、我が国の子どもの学力が世界一でなくなったことが多くのメディアで報じられていますが、学力低下はそれほど簡単な測定によって明らかにできるものとは思えません。
子どもは社会の鏡と昔から言われています。子どもの学力低下や人間性の欠如は、まさしく社会実態の反映に他なりません。その原因とされている学校教育は、社会の一部なのです。学校や教師がどれほど努力しても幼児期に形成されたパーソナリティをそうたやすく変えられるものではありません。教育基本法の改正や教員免許の更新制、そして「ゆとりから確かな学力」への方針転換をするであろう学習指導要領は、教育を改善しようとする努力の表れでしょうけれど、それは学校教育において機能して初めて有効となるものです。そして学校教育を改善するためには、社会そのものの改善が前提なのです。
この国の、この政治の、この社会の中で、心ある有能な教師が苦しんでいます。社会の弊害をすべて学校の責に帰するのですから、教師の職務を全うしようとすれば自らの生活を犠牲にした「聖職者」となるしかないでしょう。
特に成長期の子どもの指導には非常に高いレベルの知識と能力が求められますが、いくら有能な教師であっても授業に関わる知識技能は保護者との交渉には役立たたないでしょう。かつて教師を支えていたのは社会から受ける敬意であったかも知れません。敬意をいただかれることなく、職務の困難さに応じた待遇もなく、自らの生活も犠牲になると知って、有能な人材が教育界から離れていきます。10年に一度の研修で教員の質が保たれるなどと、世間は本気で考えているのでしょうか。研修が必要なごく一部の教員の能力をボーダーラインにまで引き上げたところで教育が改善するはずもないのです。
テロ対策特措法の議論の影に隠れていましたが、政治家たちの教育的センスにかなりの危機感を抱く今日この頃です。
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