日曜の夜に「ウルルン」を見て1週間の口直しをします。そのままチャンネルを変えずにおくと関西地方では「情熱大陸」という個人ドキュメンタリー?番組が始まるのです。今週は日本通の外国人が日本の美について熱く語っていました。
東洋文化研究家という肩書きの「アレックス・カー」という人物が語っていたのは、小難しい理屈ではなくて、彼の感性であったと思います。現在の日本が見失っているモノが何かを彼は最も本質的なところでとらえていました。彼は京都に魅力がなくなったのは古いモノが失われたからではなく、新しいモノに魅力がないからだと言います。確かに京都は常に新しいモノを形としてきたし、それが京都の魅力でもありました。僕はそう思っています。しかし、今の京都で「何が守られようとしているのか」が僕にはわかりません。確かに高層建築が京都の景観を破壊するという考えもあるでしょう。しかし高層建築によって破壊されるような景観が今の京都に残っているのでしょうか。京都らしさを損なう主因は、庶民が自らの町を愛する意識を持っていない故であることを彼は見抜いていました。
僕は日頃、ケバケバしい装飾看板と林立する電柱と電線の合間から「世界遺産」を見て暮らしています。それが世界最古の木造建築であったり、ある時代の貴重な芸術であるということは、知識として知っていても、それが僕にとって何かをもたらしてくれるモノであるとはとうてい思えないのです。景観は庶民の心の鏡です。古都に高層建築を許容しないという心と、娯楽施設の借景に薬師寺が置かれていることを許容する心が、ほんとうにその土地に暮らす人々に共有されているのでしょうか。
ヨーロッパでは、田舎のどんな町に行っても、その町らしい個性があります。それがその町に暮らしている人たちが守っているモノなのだと思います。今の日本人にはそれがないように思います。消費社会と伝統の折り合いを付ける術を知らないのは、人々の心の中に感性がそだっていないからです。
明治期以降日本は近代化を推し進めてきました。しかし、かつてはそこに何らかの価値観が共有されていたはずです。過剰と思えるほどに立派な明治期の学校建築は、当時の人が国の礎として教育をとらえた意識の表れであったのでしょう。しかし、今の日本の心は、その景観の破壊に示されるとおり、精神的な主柱と方向性を見失っているように思います。
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