8月14日夜のNHKスペシャルは前日の続編でした。インド代表判事は東京裁判でなぜ全員無罪を主張したのかという切り口には非常に興味を持っていたのですが、A級戦犯全員無罪の論拠は純粋に法廷理論上のことでした。これは「犯罪をその犯罪発生後に出来た法律をもって裁くことはできない」という法廷の常識です。東京裁判にはその法廷の常識がないことをインド代表判事が問題にしたわけです。
僕の理解では東京裁判は純粋な「裁判」ではなく、敗戦国をどう処遇するかの「戦勝国による国際会議」だったということでしょうか。日本はこの東京裁判の結果を受けて講和条約を締結しているわけですから、それが裁判としての要件を満たしているかどうかは別として、政治的には東京裁判を認めたことになります。
インド代表判事が問題としたのは、東京裁判がニュルンベルク裁判で新しく採用された「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の適用を前提としていた点でありましたを。事後法をもって犯罪を裁くことは法律家として受け入れがたかったのでしょう。ですから「裁判官として判断すれば全員無罪の判決しかあり得ない」ことになります。それが認められない法廷で彼は孤独な戦いをしたわけです。
インド代表判事は裁判の要件を満たしていない東京裁判になぜ関わり続けたのでしょうか。ここからは僕の推測になりますが、インド代表判事は、日本だけでなく、植民地支配を当然のこととしてきた欧米列強の過去の植民地支配も含めて「許せない所業である」と主張したかったのではないでしょうか。日本が開戦した当時侵略戦争は国際法上犯罪と見なされていなかったという彼の主張は、日本の行為が「平和に対する罪」であるならば、かつての欧米列強も「平和に対する罪」を犯していたのではありませんかという厳しい問いかけを戦勝国側に突きつけたものなのです。裁判官として日本のA級戦犯全員無罪を主張することは、裏返すと過去の欧米列強の植民地支配に対する「裁判官としての最大限の抵抗」であったと考えます。
「人道に対する罪」の概念は、現在では国際法としての共通認識が成立しているようです。しかし、「平和に対する罪」の構成要件はいまだ十分な共通理解が得られていません。ということは、60年も前の東京裁判で「平和に対する罪」「人道に対する罪」を国際法違反として裁いたことには疑問が残ります。この点はマッカーサーが考えたように、真珠湾攻撃などの国際法違反を軍法会議で裁くことにとどめるべきだったのかも知れません。
第2次世界大戦の発端は日本軍の一部指導者に主因があったでしょう。しかし日本軍の行為は欧米列強の模倣だったのです。インド代表判事の他に、欧米列強の植民地主義の犯罪性を糾弾した判事がいたでしょうか。あるいは欧米列強の覇権主義を反省した連合国首脳がいたでしょうか。ナチスと旧日本軍の行為は糾弾されてきましたが、戦後半世紀以上を経て国際紛争は収まる気配を見せません。第2次大戦後の国際社会にあって、「平和に対する罪」「人道に対する罪」はしばしば発生しています。しかし、それは常に戦勝国によって正当化され、裁かれることはありませんでした。日本の行為が人道に対して平和に対して問題があったことは事実でしょう。しかし、僕の意見では原爆投下に関わった米軍の意志決定プロセスもまた「人道に対する罪」を犯していたと考えるのです。インド代表判事がこの原爆投下をナチスの残虐行為と同列に考えていた節もあります。
東京裁判ではインド代表判事の考え方に共感したオランダ代表判事が本国の意向に逆らった少数意見を出しています。彼は「人道に対する罪」や「平和に対する罪」を裁くことに異論をはさんではいませんが、直接的な指揮命令権のない文民の戦争責任を問うことに対して慎重であり、かつ人道に対する罪を犯した司令官の責任を厳しく問うスタンスであったようです。
この時期にいつも問題として取り上げられているA級戦犯の靖国合祀の問題を国内事情への干渉として排除しようとする立場があります。僕はその立場を一括りに全面否定しようとは思いません。ただし、このことは周辺諸国の意向に関わらず「日本国内の問題として」十分検証されねばならないと考えます。無謀な戦争を起こし若い国民を死に至らしめた責任者が、心ならずも戦地に出向いて命を落とした一般国民と同列に祀られていることに違和感を持つ人は少なくありません。また、戦地で現地の非戦闘員を殺害し強姦した兵士や、それを知りつつ「やむなきこと」と黙認した現地司令官は軍法会議レベルで裁かれるべき戦争犯罪人です。戦争末期に徴兵され、家族に思いを残しながら若い命を散らせた兵士たちの英霊が、こうした戦争犯罪人と同列に扱われることを良しとするでしょうか。周辺諸国の政府も国民も日本国民を一括りに評価することができないことは承知しているはずです。
さらに言えば、捨て石と見限っていた硫黄島に数万の兵を配置した参謀本部や、前途ある若者に無謀な玉砕命令を出した現地司令官が、国のために命を捧げた神として祀られることを全ての戦没者が容認するでしょうか。真の戦争責任の所在が明らかにせねばならないのです。真の戦犯は戦勝国が決めたA級戦犯とは異なると思いますが、日本側の総括がなされていない故に「東京裁判のA級戦犯」の靖国合祀と靖国参拝の説明ができないのです。
先の戦争の証言者がいなくなる前に、検証すべきことはまだまだ残されているように思います。
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